高田城の建設
 着工年をさぐるのに一つのよい事例は徳川家康公の第6男松平忠輝による高田城の建設です。慶長15年(1610)、忠輝は信濃国川中島藩(後の松代藩)より越後国高田藩に移り福島城に入城しました。その後の慶長18年(1613)忠輝は新城建設を思い立ち、生母の茶阿局に助力を願った。茶阿局は同年7月13日に侍女を通じて金地院崇伝に築城の吉凶占いを願う次のような手紙を送った:
  「越後少将様 御むまれ月日八月九日 いま御座所よりみなみのほうに しん城とりたて候や 御らんじ可被下候 御とし二十二」。これに対して崇伝は翌7月14日に次のような返書をしたためた「越後少将様 御むまれ年月日御かき付 はいけんいたし候 ことし南へしん城御とりたてなされ候方の事 御たづねなされ候 なにのさしあいも御座なく 一たんとよき方にて御座候まま 此よしおふくろ様へおほせ上られ候べく めでたくかしこ」(玉置豊次郎著『日本都市成立史』より引用)。
 この崇伝は「家康の愛顧をうけ常に左右に近侍し。。。重要事項の吉凶は悉くこれを相することを命ぜられていた」とされる人物である。玉置氏は崇伝がどのような手法を用いて相したかを明記していないが、この事例を紹介する節のタイトルが「八卦」であることと少なくとも生年と方位とが使用されていることから、古来からの方角占である「遊年」を使用したと推察される。
 易の八卦を八方に配した方形盤上において、男性は離卦からスタートして一定の規則にもとづいて1年ごとに時計回りに進み、当該年齢のところに位置する方角(および対応する八卦)のことを遊年といい、その方角には造作・移転等を避け、遊年とは相生の関係にある方角(生気方)は当該年齢の人にとってはよい方角となる、というものである。
 忠輝22才のときの遊年は八卦震方位にあり、生気方は八卦離(南方)となる。それゆえ、御座所より南の方はよい方角となる。
高田城の築城命令が加賀藩主前田利光(利常公の若かりし頃の名前)以下13大名に発せられたのは翌年の慶長19年正月であり、着工は3月15日から(『三百藩主人名事典』より)ということであるから、着工は翌慶長19年であります。文禄元年(1592)年8月生まれの忠輝は慶長18年(1613)8月9日で数え22歳となり、翌年は23歳の年回りであるが、崇伝は返書において「ことし南に新城おとりたてなされ候方の事」と書いているから、今年にとってよい方角と占断したものと推察されます。
 加賀藩第3代前田利常公は寛永16年(1639)6月20日に致仕し、家督を長男光高卿に譲り、自らは20万石を養老封として小松城を改めて築くことを幕府より認められました。豊臣家滅亡後の元和元年(1613)閏6月13日に発布された一国一城令により小松城は廃城になっていましたので、特例として一国二城が認められたことになります。小松城に入城したのは翌寛永17年6月です。寛永16、17年には利常公はそれぞれ47歳、48歳になり、小松城は金沢城の坤(南西)方位にありますが、どちらの歳も生気方は坤にならず、新城を築くないし移る際に生気方を考慮しているとは考えられません。

小松天満宮の着工年をさぐる

瑞龍寺起工と小松天満宮造営の着工
 加賀藩三代藩主前田利常公が兄利長公(第二代藩主)の菩提寺たる高岡の瑞龍寺造営の起工を行ったのは正保2年(1645)とされています。すなわち、「正保二年利常公は先代の冥福を祈るために法円寺を併せて新たに瑞龍寺の大伽藍造営の工を起こされた。公は山上善右衛門に命じ、伽藍は支那浙江省径山万寿寺の企画に則って大方丈・小方丈・衆寮・大庫裏・小庫裏・回廊・鐘楼等を具えせしめ、また、近藤加左衛門・市橋佐次右衛門に総構の?壘を築かせ、明暦二年(1656)にいたって伽藍は略竣工を見、残部は寛文二年(1662)綱紀公によって完成した」(財団法人前田育徳会著『前田利常略伝』38頁)。ここで法円寺とは、利長公富山在城時に金沢の法円寺を招いて建立され、その後、高岡城引越後に高岡に移され、利長公逝去後に瑞龍寺と寺号改められた寺院とのことです(『加賀藩資料第3編、488頁』)。この加賀藩資料によれば、利長公墓碑の建立(浅加左京奉行)にあわせて、正保元年(1644)に瑞龍寺の山門を佐久間弥佐衛門奉行にて行ったと記載されています。また、正保3年(1646)は利長公の33回忌にあたり、ご命日の5月20日、高岡に造営された利長公墓所において盛大に法要が営まれていますから、瑞龍寺の(山門以外の)本格的造営は前記のように、正保2年開始となりますが、『前田利常略伝』が依拠する出典は現時点では明らかではありません。
 正保2年という年は加賀藩にとって多難な年の一つです。4月5日には将来を期待されていた加賀藩4代光高卿が31才にて逝去され、6月13日には利常公のお孫さん(後の綱紀卿)が僅か数え3才にて5代藩主に就任され、利常公が後見して藩政を監督することとなりました。利常公の生年月日は文禄2年(1593、癸巳)11月25日ですから、正保2年には53才になります。この歳の遊年を求めてみますと、艮(丑寅、北東)の方角と求まります。『古事類苑』方技部三に鎌倉時代初期に成立した百科全書である『二中歴』よりの引用として、「遊年。。。所在之を避けるべし、。。。その遊年下仏神に仕えるは大吉」とあります。それゆえ、遊年の歳に在城の小松城からみて艮の方角に瑞龍寺の起工を行うことは、当時の考え方からして理にかなうことであったことがわかります。
 それでは、53歳以後に再び遊年が艮方角にくるのはいつでしょうか?それは、利常公が還暦(61才)を迎えた承応2年(1653、癸巳)のことです。在城の小松城の艮方角に当社を建立することはやはり理にかなっていますから、この承応2年が当社の着工年と推定できます。
 ちなみに、現存する小松城を描いた絵図として、承応元年の絵図には当社の敷地一帯は「沼田足入」としか記載されず、当社記載が明記されているのは建立後の寛文7年(1667)の絵図となります。また、昭和60年頃に実施された当社境内地のボーリング調査により、現在社殿のたっている地盤は人為的に埋め立てられた地盤であることが判明し、本多政長著の当社の縁起書にある「数千万の人夫をもて、数年にして地所成りければ、洛陽北野の御宮造をうつせ給い」の文章と合致することが確認されています。社殿造営には少なくとも2年間を要するとして、棟札の書かれた明暦3年(1657)2月にはほぼ完成しているとして冬期間を考慮すると、承応2年(1653)から2年間で地所造成を行ったと推定されます。
 また、前述の重臣らによって奉納された釣灯籠に記された承応3年の年号は、類似の事例との照合が必要ですが、当社の地所造成の概成を祝してのことかもしれません。

 平成24年10月にあらたに所在の確認されました承応三年7月25日奉納の宝物により、当時の文化思想を勘案すると、この承応三年が当社の地所造成が概成していたことは、ほぼ確実になりました。

武家諸法度と棟札にみる配慮

 『二中歴』所載の八卦・遊年という考え方は我が国においても藤原京の昔から知られていること(インターネットでアクセスしうる藤原京から出土の木簡を参照されたい)ですし、菅公左遷の一因となった辛酉革命説に依拠して江戸幕府のもとでも改元の行われた事実からして陰陽道の依然として一定の役割を演じていた背景を考慮しても、はたして本当に利常公がこの考え方で社寺建立の着工年を決められたのかは、現代人には疑問となりえます。17世紀中頃という時代には少なくとも二つの特徴があります。1)日光東照宮建立以後から幕府の権力が高まる享保年間までの間、諸国において徳川氏をはばかって藩祖を神に祀ることははばかられた(『日本思想体系、28巻、440頁』)という時代状況です。寛永20年(1643)将軍家光に献上された 『寛永諸家系図』において菅公の末裔とされた藩主自らが菅公の社を建立するというのは、こうした状況下で行われています;2)将軍家光によって1635年に公布された 『武家諸法度』(寛永令)においては「隣国において新儀を企て・・・・ることあれば速やかに幕府に言上すること」とか「国々においては何事も江戸の法度のごと遵行すべきこと」といった条文があり、新規の社建立は新儀であり、あやしいと思われれば他藩より訴えられる可能性大であります。以上、2点より、『二中歴』記載の伝来のしきたりにより対処したとすれば、無難と考えられた、これが現代人にとっても納得しうる説明ではないでしょうか。幕府の嫌疑を避けるもう一つの配慮は、前述の当社棟札には 下に示しますように、「松氏守宮」として建立したと明記されています。加賀藩前田家も松平姓でしたから、松平氏の守り宮として建立したとされています。
                                           


明暦3年(1657)2月23日付けの創建の棟札には、右のように「地の潔き処を択んで新たに菅君の社を建てる」と明記されています。

小松天満宮社殿等の完成年は明暦3年と判明していますが、創建の工事がいつから開始されたかを記す古文書等は現在までのところ判明していませんが、加賀藩重臣である本多政長や横山忠次らによる釣灯籠が承応3年に奉納されていますから、少なくともそれ以前の着工と推察されます