小松城に親しむ小松城は文化の城

目次

1)一国一城令の例外の城の中での小松城の特徴

 1.1) 一国一城令の例外の城

 1.2) 白石城から学ぶこと

 1.3) 小松城の本丸櫓は、軍事施設としての城郭櫓ではない

 1.3.1) 「天守台」と称されるのは江戸後期から

 1.3.2) 小松城説明板にみる城の縄張りと兵法との関わり

 1.3.3) 大和 智氏の小松城関連論文より

2)小松城堀割にみる作庭記との関わり

 2.1) 小松城の堀割

 2.2) 作庭記の所持者は利常公

 2.3) 作庭記の代表的な現存例としての毛越寺庭園

 2.4) 小松城の遣水と作庭記

3)犬丸博雄氏の城郭模型と小松城堀割の自然的側面

 

 

1)      一国一城令の例外の城の中での小松城の特徴

 

1.1)      一国一城令の例外の城

 

 安永9(1780)から天明5(1785)の間、小松城代を務めた富田景周(とたかげちか)の『越登賀三州志』の来因概覧附録巻之三 には、例外の城として以下が記されている:

 

 1)加賀前田家 小松城

 2)越前松平家 府中城

 3)伊達家   白石城

 4)尾張徳川家 犬山城

 5)紀州徳川家 新宮城

 6)紀州徳川家 松坂城

 7)藤堂家   上野城

 8)芸州浅野家 三原城

 9)蜂須賀家  洲本城

10)長州毛利家 岩国城

11)池田家   米子城

12)細川家   八代城

 

この他に、景周は尾張藩の犬山城に加えて星崎城をあげているが、天正16(1588)に廃城になっているので景周の誤りと思われる。これ以外にも、常陸より秋田に移された佐竹家の二つの支城(大館城、横手城)などがあるが、ここでは景周の説に従って上記12の城を一国一城令の例外の城とする。

 このうち、八代城は、元和51619年に大地震で倒壊した麦島城の代わりに、元和8年に加藤忠広が新城建設を請い、許可されて築城したものである。島津氏の押さえの役目もあって天守をもつ「武」の城である。この八代城と小松城以外は全て、大阪夏の陣以前に「武」の城として築城されたものであるが、一国一城令以後に、「武」の城としての形態を薄めた城もある。上野城は、慶長16(1611)に藤堂高虎が改修に着手したが、夏の陣にて豊臣氏が亡んだ後は、本丸等の主要部分の築城が中止されたままになって明治維新を迎えている。また、洲本城は四国の三好氏が淡路島支配の拠点として1526年に山上に築いたが、一国一城令後に山上の建物を撤去して、平地に政庁を置いている。このように一国一城令以降は、「武」の城として建立されても、そのイメージを取り去るか、外観は残しても、「武」の城としての性格を薄めようと努力している。この後者の例が、白石城である。

 

1.2) 白石城から学ぶこと

 

伊達藩白石城のHPに、「伊達62万石のもう一つのお城」と題して、以下のように説明されている。

 

 「元和元年(1615)に江戸幕府により発せられた一国一城令によって、各藩では大名の居城を残して領内の支城を全て破却するが、仙台の伊達家の場合は、加賀の前田家における小松の城などとともに、領域の南を守る白石城が特別に残されました。そのような事情から白石城では天守に相当する櫓を「大櫓」と呼び城主片倉家の日記の中でも、天守とは記していません」。

 

 白石城は、大阪夏の陣で伊達軍の先鋒として、真田幸村隊と死闘を演じて全国に武勇をとどろかせた片倉小十郎重長の城であり、天守(下図、図1)も存在していました。それでも「大櫓」と呼んでいるのです。

 

 

1.3)小松城の本丸櫓は、軍事施設としての城郭櫓ではない

 

小松城は、関ヶ原の戦いで敗れた丹羽長重の時には「武」の城であったものが、一国一城令にて廃城になった。その後、寛永16年の三代藩主利常公の退隠に伴い、幕府の許可を得て、丹羽氏時代の城跡を本丸として、二ノ丸、三の丸を新たに造り、金沢城の2倍の大きさにて大々的に修築された城であり、上記12城の中では最も新しい城である。

 

1.3.1)「天守台」と称されるのは江戸後期から

 

 「天守台」という言葉は天守をささえる台のことであるから軍事施設としての「武」の城に固有の名称である。『新修小松市史資料編1 小松城』(以下、小松市史資料編1と略)所収の古文書において、「天守」という言葉が使用されているのは385頁記載の「小松城御本丸御殿之絵図」である。この絵図は天明6年(1786)から文化6年(1809)頃の作成と資料編1ではされているから、江戸後期になってからであり、これ以前、冨田景周の作成した「安永9年 小松城御本丸御櫓絵図」は、「御天守」ではなく「御櫓」となっている。シベリア総督の通商要望書を以て、ロシアのアダム・ラックスマンが大黒屋光太夫を伴って根室に到着したのが寛政4年(1792)である。これ以降、我が国において海防や防衛意識が高まってくる。このような時代背景のもとでの用語の変遷と考えられる。

 

1.3.2) 小松城説明板にみる城の縄張りと兵法との関わり

 

 

小松城の説明板(上図、図2)には、以下のように書かれている:

 

 「小松城は梯川の蛇行によって作られた沼地を利用した平城であり、川の水を引き入れた堀の中に8個の島が兵法にしたがって配置されている。表向きは利常の隠居城であるが、外敵に対する防備を堅くした渦郭式といわれる構造である。」

 

城の防御には「水際作戦」と「縦深防御」があり、小松城の場合は、渦巻き状に掘られた堀の一番奥に本丸が、その手前に二ノ丸、三の丸が縦深配置されているから縦深防御を採用して、「渦郭式縄張り」といわれる様式で築城されている。小松城は城であるから、城作りの基本に則って築城されていることは確かではあるが、8個の島が兵法に従って配置されているとするには、小松市史資料編1には関連資料が見当たらない。

 

幕末期以来の国防意識の高まりと共に、小松城を「武」の城の観点から再考察しようとする機運が高まり、「天守」の用語の復活や兵法による説明がなされるようになったと推定されるが、築城当初の意図ではないといえる。さらに、小松城の本丸櫓は、外観二重、内部三階の望楼風の御櫓であり、全くもって文化的な建物といえる。

 

          小松城本丸櫓の絵図については

  『新修小松市史資料編1 小松城』392-399頁を参照ください

 

1.3.3) 大和智氏の小松城関係論文より

 

昭和589月開催の「日本建築学会学術講演梗概集」2523頁所収の論文において大和 智氏は、以下のようにまとめている:

 

 「小松城本丸天守櫓は、内部、外部ともに軍事施設としての通常の城郭櫓とは全く異なる特徴ある構造様式を有し、室内意匠は華美で趣向に富んだものであった。同様形式をもつものとして松本城、岡山城、岡城などにみられる月見櫓など城主の遊興のための施設をあげることが出来、当時、上層階級の別業、下屋敷などを中心に盛んに建てられた望楼風の建築との共通性も指摘でき、江戸時代初期の武家階級の殿館にあった趣味性の強い建築のうちで、具体的な姿が明らかになる貴重な一例といえるだろう。」

 

 

2)小松城堀割にみる作庭記との関わり

 

2.1) 小松城の堀割

 

冨田景周の『越登賀三州志』の来因概覧附録巻之三は、小松城の水回りを概略、以下のように記している。

 

 「凡そ小松城の塹水は梯川の水也

 (1)その水口は梅林院の向いより入、下駄橋下を歴て松任町路すち桑畑の後口を流れ中藪へ出つ、

 (2)是より二流となり一水は馬廻の士居宅の後口を回りて北庄橋下を過て広処へ出て是より一流と成りて河口へ出、

 (3)又一水舟止二枚橋下より白鳥塹へ出て、是より牧島と中土居との間を通り、琵琶島腰を過て愛宕前へ出て、

 (4)長橋の下を歴て夫れより内塹に入りて二流となり、左の水は筋違橋下を流れ葭島と楽屋つづきとの間を歴、本丸に沿て繞る、右の水は琵琶島を沿てこの間石橋の下より外塹の水流れ入なり、台所橋下を通り車橋の下より本丸を繞り、

 (5)左右の水一流となり、敵樓の向より白鳥塹へ出る。。。」

 

これを当社蔵の絵図を用いて記したのが、下図の図4である。原図は西を上にして描かれているが、ここでは北を上にして、水回りを白色で表示している。太い白点線は、景周の説明する(1)の箇所と(5)の箇所に対応している。一つは、水口の位置が梅林院の向かいの梯川左岸にあること、もう一つは内堀の水が本丸櫓台の向かいから外堀に出る箇所を示している。景周のいう「梅林院の向いより入」というのは、当社の調査により、十五重塔の真南に水口があったことが判明している。

 

 

 水流は、(1)の水口から南方に進み、(2)の地点から水流が二流となって三の丸地区を廻っている。三の丸には小松城に勤務する主だった武士が居住している。三の丸を廻ってから、水流は西に進み、西南の箇所(流出口、景周の説明では(2)の河口)から梯川に流れ降っている。河口の手前で、水流は外堀に入り(上述の(3))、(4)の箇所で本丸を廻る内堀に入っている。図中の太い白線は、本丸地区をめぐる水流を示しているが、明治期に描かれたと思われる「小松城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)の解説文(『新修小松市史資料編一』三二七頁)に、「小松城ハ往昔浮城又ハ芦城ト称セラレ、龍蟠リ虎踞マルノ概アリキ、而シテ今残レルモノ僅カニ天守台ノミ。。。」の記述があるが、本丸櫓台(この解説文では天守台)の東方よりの水流が青龍に、西方よりの水流が白虎に対応している。

 

2.2) 作庭記の所持者は利常公

 

 林屋辰三郎(2001)『作庭記』中の解題によれば、「作庭記」の名称がはじめて世に知られるのは、寛文6年(1666)の奥書のある「作庭記」の写本によってである。柳谷(野間)三竹による奥書により、所蔵者が松平綱利(加賀藩5代藩主前田綱利)、藩主の侍読である木下順庵が所蔵していた「作庭記」を写させてもらった旨が判明するのである。「作庭記」の著者は、宇治の平等院を建立した藤原頼通の三男で橘俊遠の養子となった橘 俊綱(1028-1094)と想定されている。

 作庭記の所在が世に知られた寛文6年(1666)とは、小松城に退隠されていた三代利常公が逝去された万治元年(1658)の8年後であり、それ以前に書き写していた木下順庵は、もともと利常公に仕えていたことと、後述する小松城の水回りの特徴や、寛永16年に退隠する前に、加賀藩大津屋敷や金沢城二ノ丸庭園、玉泉院丸庭園の造作において小堀遠州の指導を得ていること等を考え合わせると、我が国最古の造園書といわれる「作庭記」の原所持者が利常公であると想定しうるのである。

 

2.3) 作庭記の代表的な現存例としての毛越寺庭園

 

 小松城との関わりを見る前に、世界遺産に指定された毛越寺庭園をみてみよう。下図(図5) は、毛越寺の復元画であるが、中心に描かれている「大泉池」は復元されているが、南大門から池の中の島を通って、金堂のある対岸まで掛けられていた橋は現存していない。

 

 

 

岩手県「いわて平泉世界遺産情報局」HP等により、ICOMOSによる世界遺産評価書において、毛越寺庭園は以下のように評価されている:

 

 「毛越寺はその中心的特徴として大泉池という池をもつ。池のレイアウトは、小島、州浜、出島、立石や築山といった多様な要素をもつ。池の北東から、幅1.5㍍、長さが80メートルの水口の水路が流れ込んでいる。この水路は発掘によって復元されたものとしては、日本庭園において最長のものである。毛越寺庭園にみる自然を尊び模倣せんとする仕様は、庭造りについての11世紀の指南書である「作庭記」の教えに忠実に従っている」

 

 古絵図から判明する小松城堀割をめぐる水流との対比では、毛越寺の遣水が特に注目される。「作庭記」(林屋辰三郎,2001)の遣水の項目を箇条書きにしてまとめると以下のようになる:

 

 (1) まず、水のみなかみの方角を定むべし。。。。

(2) 東より南にむかへて西へながすを順流とする。しかれば東より西へ流す、

常事なり。。。青龍の水をもちて もろもろの悪気を白虎のみちへ

あらひいだすゆえなり。。。

(3) 四神相応の地を選ぶとき、左より水ながれたるを、青龍の地とする。。。

北より出ても、東へまわして南西にながすべき也。。。遣水のたわめる内

を竜の腹とす、居住をそのハらにあつる、吉也。背にあつる凶也。

(4) 又北よりいだして南にむかふる説あり。北方は水也。南方は火也。これ

陰をもちて、陽にむかふる和合の儀。かるがゆへに北より南へむかへて

ながす説、そのりなかるべきにあらず。

 

 毛越寺の復元画は北を上にして描かれているので、大泉池の北方にある金堂等の主要伽藍は南面している。遣水は上述の(2)(4)に合っている。すなわち、水口は、金堂の東方、大泉池の北東の方向にあり、そこから南方にながれて大泉池に入っている。下図(図6)はその模様である。

 

 

水口から流れ出る水の石組も「水の折れ曲がりたわみゆくところに石をおき、すじかひへゆく先にまた石を立つ」という「作庭記」の指南の通りになっている。

 水口から南に流れて池に入り、そこから西方に流れて、池の南西方向の流末から流れ出るというのも、「作庭記」の指南通りになっている。下図(図7)は大泉池の流末の画像である。

 

 

 毛越寺庭園の代表的な景色は、大泉池から開山堂をのぞむ情景であり、毛越寺観光ガイドさんがガイドの最後に取ってくれる撮影スポットとなっている。下図(図8)がその情景である。この石組みも「作庭記」記載の大海の姿とされる荒磯の情景をあらわした石組みの例である。すなわち、「岸のほとりに中途半端で落ち着きの悪い尖った石を、汀を根もとのようにして立て、離れ出でたる石をも沿えて、厳しい浪にて洗い出された姿のようである。」

 

 

 毛越寺庭園の復元は、戦後、長年にわたる発掘調査の結果をふまえてのものであるが、当初 水口の位置が不明のときは、大泉池の水もにごっていたが、東北の水口を復元してから,池の水のにごりもなくなったとの観光ガイドさんのお話であった。

 

2.4) 小松城の遣水と作庭記

 

 図4をみながら、小松城遣水の特徴をまとめると以下のようになる:

 

(イ)作庭記にいう主要建物は本丸地区の「本丸御殿」や「御櫓」であるが、水口は、東北(丑寅)方向に置かれている。

(ロ)この水口より真南に水をまわしてから、三の丸を廻りながら東から西に流してから、城の外堀に水を取り込んでいる。

(ハ)外堀をめぐらせてから、再び、本丸御殿や御櫓の東北方向から内堀に水を取り込み、本丸をめぐる水の合体して、遣水のたわめるようになった、その内側に本丸御殿や御櫓をもうけている。

(二)遣水は、本丸の東北(丑寅)方向の水口から梯川の水をとり、南西(未申)方向から梯川に流出させている。

 

 これらの特徴はいずれも「作庭記」の指南通りになっている。(イ),(ロ)、(ニ)は、前述の「作庭記」遣水指南の(2)、(4)に対応している。(ハ)は(3)に対応している。すなわち、北東にある水口から南方の三の丸地区といった家臣の住居地区や町方居住区に接する地点まで水をまわし、東方から西方に水をめぐらせて、青龍の水もてもろもろの悪気を白虎のみちへ洗い流してから、城内に水を取り込んでいる。また、龍の腹のうちに居住を定めるように、本丸地区の遣水を構築しているのは、その例である。

 このように「作庭記」を考慮した一大庭園としての城作りが行われていることが伺いしれるのであり、防備の面が考慮されたとしても、それが主目的になり得ないことは、福島家、加藤家といった豊臣恩顧の大名が取りつぶされていくという当時の政治状況の中では考えにくいことといえる。この点からも、小松城は「文化の城」として建立されたといえるのである。

 

 

3) 犬丸博雄氏の城郭模型と小松城堀割の自然的側面

 

小松市史資料編1の第六章において古絵図にみる小松城の堀割や建造物について解説した犬丸博雄氏は、最初に、小松城の最も精巧な絵図面である「小松城内分間絵図」の複製版を作成している。次ぎに、それを原図として、縮尺比1255分の1の図面を作成し、厚さ3㎝のスタイロフォームに貼り付けて堀部分を刳り抜いたものを、もう一枚のスタイロフォームに貼り付けて接着して作成したのが、小松城の城郭模型である。ここでは、犬丸博雄(2008)、「小松城の堀を満たす水の流れ」、加南地方史研究55号より概要を紹介する。堀の深さについては、小松城の堀割と石垣の絵図面である「安政二年 小松城御堀石垣高サ並渡間数控御絵図」中記載の堀割各所の堀の深さデータを解読して、その平均値をもって模型製作に適用している。下図の図4が作成された城郭模型である。図4の上部は北方である。

 

 

城郭模型の位置関係を示したのが、次ぎの図5である。

 

 

青色線は、梯川の水流の向きを示している。

安政二年の絵図には、堀の深さと共に、泥の堆積深さと泥の上の水の深さのデータも記載されている。犬丸氏の解読した、これらの数値データを利用すると、堀割各所の泥の堆積状況が読み取れる。泥の堆積状況を3分類して、

129㎝以下を  黄色

130169㎝を 橙色

170㎝以上を  赤色

で表示し、また、堀の深さのうち、泥で堀が埋まっている程度が半分以下の箇所を青色にて表示したものが、下図の図6である。

 

 

汚泥の堆積が少ない箇所のその1は、蔵利用がよくされている二ノ丸付近であり、以下の図7である。

 

二ノ丸東側には塩土蔵、鉄砲蔵、弓蔵があり、これの出入りの水路部分の深さは深くなく、また、汚泥の堆積も少ないことが判明する。

藩政期の小松城は、町方賦役により定期的に堀の浚渫が実施されていたが、よく浚渫されている第二の箇所を示すのが、次ぎの図8である。水口から取水した城内の水が再び梯川に戻る流末の手前から、城内の外堀に水が引かれているが、その隘路にあたる「二枚橋」付近と、本丸のある内堀との水の出入りの箇所である「引橋門」あたりの堀も浅くよく浚渫されている。

犬丸氏は、作成した城郭模型に3リットルの水を注ぎ、ポンプを稼働して水流をつくり、そこにシッカロールパウダーを水面に落として流水紋をみることにより、小松城内、特に、外堀と内堀の水がどのように流れるかを確認している。その結果、水口から流末にいたる主流部分以外の外堀、内堀の水域は水が充満しているが、ほぼ静止状態であり、水の動きは観察されないこととなった。利常公存命時の小松城には多くの藩士らが居住しており、その生活排水がどこから排水されていたかは不明であるが、城内の水に動きがないことは、不衛生でもある。

城内の水が流れる(動く)主要因は以下の3つである。

1)      水面勾配(水の位置エネルギー)

2)      降雨による影響

3)      潮位の変化による影響

このうち、第一の水面勾配については、平常時の梯川では、上流から日本海までの水面勾配はほぼ平坦であり、位置エネルギーによる動きは期待できない。降雨、特に、大水時には、梯川からの大水が城内に流れ込んでくるであろうが、これも定期的、通年にわたって規則的には期待出来ない。

 結論的にいえば、第三の要因が重要であることが判明する。金沢河川国道事務所小松出張所の助力を得て、上流の雨量観測所で降雨のなかった時期、それゆえ、降雨による水位変動でなく、潮位によるものが如実に現れる時期として、平成25年5月20日から527日までの期間を選んだ。この間の当社近くの小松大橋付近の梯川の水位データ(金沢河川国道事務所調べ)を使用して、水位変動を示したのが図9である。5月の新月は5月10日、満月は5月25日であり、共に大潮の日である。この期間前後の上弦は18日、下弦は6月1日で共に小潮の日である。

 

  

上図より、満月翌日の526日午後10時の水位がTP0.08㍍、翌日の27日午後4時の水位0.47㍍であるから、潮位による水位差は約40センチとかなりの大きさになる。しかも、図5の梯川の流れは、小松城の水の排出先から下流において、今江潟からの排水と合わさって前川から安宅の海岸にて日本海に流れ出ている。高潮による水流は、この流れの逆向きに、城の水の排出口から外堀、内堀に流れ込み、潮位低下にともなって、排出口に流れ出ている。これにより堀割の水の浄化もされることであろうから、排出口及び外堀への水の取り込み口が潮位変化を受けやすい位置にあることから、これらを考慮して堀割を決められていることが推察される。ただし、潮位による河川水位差が城内の水循環にあたえる効果を具体的に把握するには、同種の城郭との比較や、犬丸博雄氏の城郭模型を発展させて、堀の深さや堀の幅を変化させた模型での実験や堀模型を抽象化した理論モデル/数値計算が必要であろう。

 

以上見てきてきたように、小松城の堀割を流れる水流は決して円滑なものではなく、潮位変化に助けられたとはいえ、通常は静止水であったであろう。それでも、この堀割形式を採用した背景には、作庭記の影響が無視出来ない。ここでは紹介出来なかったが、小松城は利常公による農政・税制大改革である「改作法」の実施本部の役割をもはたしていた。これらを考え合わせると、小松城は平和到来の時代に作られた文化の城といえる。