小松商工祭の由来

 

はじめに

 

加賀藩三代前田利常公をお祀りする小松神社は昭和の大御代は1265日に金沢市の尾山神社より当社に宮渡りされました。御祭神が小松城に入城されたとされる65日に,毎年、小松神社例祭・小松商工祭が斎行されますが、本年も、小松神社の当社への宮渡りに尽力された昭和12年当時の小松商工会の後身たる小松商工会議所会頭殿始め役員各位、利常公のお仕事を引き継いで政に努められている小松市長殿、小松市議会を代表して副議長殿、当社の奉賛会長殿はじめ役員各位参列のもと厳かに斎行されました。小松神社が当社に宮渡りされてから80周年を2年後に迎えることから、社務所ではかねて小松商工祭の由来を調査してきましたが、その調査結果を、以下にご紹介いたします。

 

1)由来解明の端緒

 

 「小松新聞」昭和30529日号の「大波小波」欄への投書において、読者より、

(こまった祭り)として、

*商工まつりからとしつね祭としつね祭から小松まつりと猫の眼のように名前が変わる、* しかもその期日が一年ごとに変更されているのでは祭りの名にもはじるのではないか。今年の期日は温泉菖蒲湯祭や寺井の庄三祭と重複するが、この二者にははっきりした本体あっての祭であるが、小松まつりの本体は一体何であるのか知るよしもない。との投書があった。

 

2)        忠谷直二氏による商工祭創始の経緯説明

 

この投書に対して、元商工会会長忠谷直二氏は「小松新聞」の次号である昭和3066日号に「三代公と商品に報恩感謝!! 商工祭の趣旨を忘れるな」と題して投稿され、昭和8年当時からの祭典開始の経緯を以下のようにまとめている。

 

1-1) 商工業者にとって何よりも大切なものは業者が互いに扱う商品であり、その商品のお陰によって生活している以上、何よりも商品は尊い存在と云うべきである。この尊ぶべき商品が余りにも粗末に扱われている事を遺憾と思い、年一回ぐらいは商工業者の祭礼日を定め、当日は各自が扱う商品の一部を神前に捧げ報恩感謝しようということになった。

 

1-2) 当時商工会理事であった中沢君を煩わし、共に先進地の武生を視察し、その長を採り、短を捨てて出来上がったのが「小松商工まつり」であった。

 

1-3)  期日と祭神について種々協議の結果、小松の殖産興業に最も力を尽くされたのは、     三代公であり、並々ならぬ努力の末に、三代公のご神体を祀る小松神社をゆかりの梯神社(現在の小松天満宮)にお迎えすることが出来たこと。三代公が小松に入城された六月五日を記念し、この日を祭日と決定した。

 

1-4) こうしてご神体をお迎えする迄(ご神体をお迎えしたのは昭和1265日)、一時の便法として三回まで当時芦城公園内に存立していた三代公の銅像に御霊をうつして荘厳な式典をあげたのであった。しかも各業者が優秀な商品を神前に献上、式後これを顧客に抽選で贈呈した。。。。この祭りの目的趣旨をはき違えずにもっとも有効適切に、しかも厳粛に挙行されるよう望んでやまない。

 

 当社に小松神社をお迎えしたのは昭和1265日であり、昭和9年の武生の商工祭(4月開催)を視察していることから、最初の商工祭が芦城公園の三代公銅像前で斎行されたのは、昭和10年からでないかと推定されます。それにしても、投書が掲載されたのが529日号で、忠谷氏の投稿文が掲載されたのは次号(66日号)であるは、如何に忠谷氏が商工祭創始の経緯を熟知されていたかを物語っている。

 

小松商工祭創始の特徴は、武生商工祭の長をとり短を捨てていることと、三代公と商品への報恩感謝の二つといえる。以下、これについて考えて見たい。

 

2)武生商工祭の開始から終了まで

 

不平等条約改正問題での外国使臣との折衝において、相手国を動かすには、国内商工業者の真の与論を背景にせねばならないが、我が国には外国にある商業会議所的な機構がなかった。そのため、政府は勧商局に命じて外国の商業会議所機構の調査を行い、その内容を渋沢栄一ら有力者に示して設立を勧奨。これをうけ、明治112月に東京商法会議所が、明治13年には金沢や武生に商法会議所が設立された。

昭和31月には「商工会議所法」が制定されたが、市制実施の都市に認可され、町制地区では認可しないこととなった。これを受け、武生町では、昭和7年に「商工会議所」に準じた「武生商工会」が設立され、この機会に、武生実業会時代に開催されていた挙町的な商品祭を改め、「武生商工祭」が年1回豪華絢爛に開催されるようになった。昭和9年開催の「第三回武生商工祭」には、丸岡町や大野町、福井商工会議所より視察にくると共に、小松商工会よりは中沢氏が視察に出向いたことが「武生商工会議所20年史」(昭和43年刊)に明記されているので、前述の忠谷氏による回想と一致している。

それでは、20年史に紹介されている昭和9年の第三回武生商工祭の内容をみてみることにする。

 

3回武生商工祭の内容

  414日 6人の子供の旗持ちにつづき、越前打刃物組合の御輿、祭主(商工会会頭、出張中のため副会頭)ら商工会幹事一同、唐櫃・総社宮司・楽人8名、その後へ、募集に応じた献納品を山車に満載して、牛に曳かして公会堂から祭場の総社まで行列進行。祭場では、神事として、修祓・降神・献饌・商品目録献進・祝詞奏上・商工会会頭による祭文奏上・町長祝辞・玉串奉奠・直会が斎行された。

 翌 415日には仮装行列や広告行列が行われ、新聞社の飛行機による協賛飛行等が行われて終日賑わいをみせた。用意された福引券は11000枚また、商店街連合会は大売り出しにて協賛。

 421日には、町役場にて商工祭の決算及び残務整理を行い、町役場より金400円の補助金を受けて、公会堂に設置した事務局を閉鎖する。

 昭和12年の商工祭では、各商店毎に一番良く売れた商品を総社大神へ奉納、祈願もこめて奉納帳に商品名と商店名を記載し、神社に永久保存すると共に今年もまた良く売れますようにとのやり方をとった。献上品を手車に満載し、鳴り物入りで総社まで行列、ほか、広告行列、餅まき、芸妓手踊り、花火、福引大売り出しなど数多く行われた。

 

このように賑やかに斉行された武生名物の商工祭も、戦時色が濃厚となるにつれ、統制強化でうるべき商品も乏しくなり、昭和16年を最後として終止符が打たれた。

 

  武生商工祭の長所は、全町あげて賑やかに祭が斎行されているところであり、これは小松商工祭においても採用され、現在は、商工祭の式典とは別に、利常公ご命月である10月に「どんどん祭り」として実施されている。忠谷氏の回想文は、短所が何であるかを特記していないが、武生商工祭が開始以来10年程で終了となっているところから、武生市中心にあるお社を会場にしての商売繁盛と顧客への感謝大売り出し的な祭典の色彩が強いようにみうけられる。これに対して、小松商工祭の場合は、小松の殖産興業に尽力された三代公のお社をお招きして祭典を実施したいとの強い志のもとに努力されての祭典創始であることに特徴がある。もう一つは、商品への報恩感謝という視点である。次ぎに、これについて時代状況をふまえつつ見て見たい。

 

3)「報徳運動」にみる商品への報恩感謝

 

明治6年 大久保利通の内務卿就任後、明治政府は 中央集権的な諸施策と殖産興業策を両輪として、近代国家の創設に邁進することとなった。慶応2年の改税約書調印以後、低率関税のため、我が国には外国商品が多量に輸入された。また、我が国産業創設のための広範な施設や機械の輸入のため、多額の正貨流出をきたしたため、殖産興業による輸出増大と輸入抑制が国家経済の最大の目標となった。このため、殖産興業に対応する国内生産力増大策として、地方の豪農・豪商による近代的産業の起業が期待された。こうした国家的要請をうけて、農業分野においても、農産品評会、勧業博覧会、農業競進会、生糸・製茶の改良、穀物・果物・野菜の収穫増加などの興農策がとられた。また、明治20-30年代には政府の地方自治振興策として各地に信用組合が設立されていった。

こうした時代の流れの中で、江戸時代末期の二宮尊徳翁に発する「報徳主義思想にもとづく結社社員の相互扶助組織と低利事業資金貸付による農村振興策」が改めて注目されるにいたった。特に、昭和5年の世界恐慌による農村経済の破綻に直面した斉藤内閣は自力更正運動を展開し、昭和7年以降に展開された農村経済更正運動には報徳主義が採用され、昭和10年の尊徳卒去80年には各地で尊徳翁80年記念講演会が開催され、全国的に報徳運動が展開されている。

 

人は天地の恵みと社会的生産物を消費せずには生きていけない。それゆえ、我々は天地と社会の恩に報いねばならないが、一つには、無駄遣いせずに消費させていただくことであり、もう一つは、我々自身が物を作り出すことによって徳に報いることである。生産とは報徳であり、報恩であるとして、人間の生産活動を報徳・報恩の積極的行為としてとらえたのが尊徳翁である。生産された商品・サービスは、天地人三才の徳のめぐみへの報恩であり、商品・サービスを粗末に扱うことは、報恩に反することであり許されないこととなる。逆に言えば、そのような心構えで商品・サービスの生産に励むことが報恩の道ともいえる。

 

おわりに

 

以上より、小松の殖産興業に尽力された三代公のお徳と天地人三才のめぐみに感謝し、商品・サービスの提供を通じて郷土の殖産興業とよりよい人づくり地域づくりに貢献させていただくことでお徳に酬いんとの願いを籠めて斎行される祭典といえます。

 

備考)本稿をまとめるにあたり以下の書物を参考にさせていただきました。

 

1)武生商工会議所(1968)、武生商工会議所20年史

2)岡田良一郎(明治13年)報徳富国論、上巻、中巻

3)海野福寿、加藤 隆編(1978)、殖産興業と報徳運動、東洋経済新報社